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創薬のパラダイムシフト

ゲノム科学の進展によって創薬研究はどう変わったか?

はじめに

ゲノム創薬」という単語を耳にする機会が増えたが、ゲノム創薬についての議論が始まったのは既に20年以上も前のことであり、現在の医薬品産業はゲノム創薬の真っ只中にある。ゲノムとはDNAのすべての遺伝情報のことであり、 ヒトゲノムは私達の生命活動のプログラムともいえるものである。 そしてゲノム創薬とは、簡単に言えば、 病気となる遺伝子タンパク質情報を知らべて、そのタンパク質に結合する分子抗体から医薬品を作ることをいう。 遺伝情報から病気に関係する遺伝子を同定して、ターゲットを絞り込んで医薬品が開発できるので、医薬品の開発期間が従来法に比べて短くなるというメリットがある。

現在の医薬品開発の主流である ゲノム創薬は、 2000年6月26日に日米欧の国際ヒトゲノムプロジェクトチーム米国セレーラ・ジェノミクスが合同で、ヒトゲノムの遺伝情報の全体像であるDNA解読完了を発表したときから始まる。この発表の席には当時のビル・クリントン米国大統領とトニー・ブレア英国首相が同席した。 このことからも如何に歴史的なイノベーションであり、21世紀の生命科学や医療・創薬への貢献を期待していたかが推察される。

2000年6月に決定された塩基配列データは、 30億塩基対といわれるヒトゲノム総体の約90%に相当する27億塩基対であったが、2003年4月14日 、遂にヒトのDNAを構成するほぼすべての塩基配列 が解読(99%の塩基配列が99.99%の精度で解読)されたことが、アメリカ、イギリス、日本など6ヵ国からなる研究チームによって発表された。このヒトゲノムの解読完了宣言によって、ゲノム創薬が一気に加速することになった。


ポストゲノム時代の創薬研究

ヒトゲノム情報解読完了は、ゲノム時代からポストゲノム時代への移行を意味し、医薬品産業にとってはゲノム創薬 (genomic drug discovery) が医薬品開発(創薬研究)の主流となるはじまりであった。事実、21世紀の創薬研究の主流はゲノム創薬となっている。 そして、ゲノム創薬は、ゲノム医療の主役でもある。


ゲノム創薬以前の創薬研究はどういうものであったか?

ゲノム創薬になる前の創薬研究、すなわち従来の創薬研究は、簡単に言うと、経験則や新たな医学的発見を背景に、膨大な数の化合物を合成し、検査し、選択(スクリーニング)していくというものであった。 従来のスクリーニング方法では、 偶然に頼る面があり、効果的ではなく、確実な探索法とは言い難い面もあった。創薬研究者の日々の努力の積み重ねの上に成り立っていたビジネスモデルと言えるかも知れない。


ゲノム創薬=ポストゲノム時代の創薬研究とは?

ゲノム創薬では、 遺伝子の情報から病気に関係する遺伝子を同定して、ターゲットを絞り込んでから医薬品の開発を開始する。 疾患のメカニズムを特定してから、新薬候補物質を探索していくので、従来の偶然に頼るスクリーニング方法に比べて遥かに効果的、かつ、確実な探索法である。この方法であれば、医薬品の候補物質として、有効な作用のある化合物を見つけることができる確率が飛躍的に向上する。また、従来のアプローチでは発見できなかった新たなメカニズムを持つ画期的な医薬品を開発することができる。

ゲノム情報のインパクトは、従来の創薬研究法やコンセプトに大きな変革をもたらした。ゲノム情報に基づくゲノム創薬は、経験や偶然性による発明・発見から、論理的かつ合理的なアプローチへのパラダイムシフトである。その効率的な技術は、有効性・安全性が高く、有用な画期的医薬品を創成できる新しい科学であり、新しい手法である。


ゲノム情報からの創薬への流れ

ゲノム情報からの疾患原因遺伝子の同定や発病の鍵を握る遺伝子の発見には、 ゲノム本体からのアプローチcDNAからのアプローチという大きく2つの流れが存在する(図1参照)。

ゲノム本体からのアプローチは、特定の疾患家系の遺伝子を同定する方法であり、原因不明で治療困難な難病において原因を明らかにすることに貢献する。これは遺伝子および遺伝子産物であるタンパク質の発現情報を正常組織/細胞と病態組織/細胞とで比較することによって異常をきたしている疾患原因遺伝子/タンパク質を見いだそうとする方法である。

一方、cDNAからのアプローチは、DNAチップやバイオインフォマティクスを活用して、疾患関連遺伝子の発症メカニズムを突き止める方法である。どの遺伝子が原因で発症するかが分かれば、その遺伝子によって作られる物質または本来の正常な遺伝子によって作られるはずの物質を制御することができ、それを基にして診断や治療に応用できる。トランスクリプトームやゲノミクスは、現在の創薬研究に積極的に取り入れられており、この潮流はしばらく変わらないであろう。トランスクリプトームによる疾患や生命現象の解明は、個々の遺伝子に還元して解析する手法に加えて、数十から数百個の遺伝子を巨視的な視点で解析する新たな手法を生み出している。

図1 ゲノム情報から創薬への流れ
引用: 野口照久, 化学と生物, Vol. 38, No. 9, 605-609 (2000)

トランスクリプトームと創薬研究

トランスクリプトームは、 mRNA 一次配列(タンパク質翻訳配列)や個別遺伝子の様々な状
況での発現情報および解析技術(マイクロアレー技術など)と定義されている。

トランスクリプトーム技術は、創薬標的探索の手法を変貌させたと言える。ゲノム情報やcDNA配列情報を基に、個別の遺伝子を識別できる短い DNA オリゴヌクレオチドを高密度にスポットされたチップ、特定の遺伝子ファミリーや研究領域に注目して、cDNA クローンのPCR 断片を高密度にスポットした cDNA アレーを用いて、mRNA の発現解析技術を体系的かつ網羅的に創薬研究に利用している。

病態正常では個々の遺伝子発現状態は変動しており、変動遺伝子創薬標的になり得るという仮説に基づき、健常人と患者の特定組織の比較や、病態モデル動物で時系列比較を行い、新規の変動遺伝子を創薬標的候補分子として見出してきた。また様々な細胞(特定の神経細胞や免疫細胞)を比較して,それぞれの固有の細胞機能を担う遺伝子を見出して、創薬標的分子としての可能性を検証してきた。(図2参照)

図2 ゲノム,トランスクリプトーム解析と医薬品開発のかかわり
引用:高山喜好, 日薬理誌(Folia Pharmacol. Jpn.) 129,47-50(2007)

ゲノミクスと創薬研究

ゲノミクスは、個体の染色体配列情報や多型情報とその解析技術(SNP 解析など)と定義されている。一塩基多型 (single nucleotide polymorphism;SNP)は、ゲノム(遺伝子)上のさまざまな領域に点在し、タンパク質の直接的な機能変異を誘発し、特定のタンパク質の量を変動させる可能性が示されている。様々な SNP の組み合わせはまさに個人の体質や個体差、病気のなりやすさを規定する要因として考えられており、その研究成果はゲノム創薬、ファーマコゲノミクス、プレシジョンメディシンへと応用の範囲を広げている。

SNP解析を基に、個人の遺伝子多型解析と薬の応答性 (薬効) や副作用、あるいは薬物代謝のデータからその相関を求めて、 臨床試験期間の短縮および適正使用の確度を向上させることができる。SNP 解析もトランスクリプトーム同様にゲノムサイズで解析可能であり、創薬研究に活用されている。(図2参照)

SNPは、ヒトゲノムの約300~500塩基対に1つの割合で存在するとされており、ゲノム創薬において疾患感受性および疾患原因遺伝子の同定探索 、患者に対する薬剤応答性や副作用の予測に活用されるなど、有用なマーカーとして利用性が高い。また、染色体上に点在する 564 万件以上のSNP情報は、生活習慣病などの多因子疾患の病因や薬物の有効性に関わる個体差をヒトで解析することを可能にしつつある。これらの情報の活用により、医薬品開発の成功確率が高まる。さらにSNPチップの開発は、画期的な治療薬のみならず予防薬や疾患の予防診断の展開にも寄与する。

ゲノム創薬においては、毒性ゲノミックス (toxicogenomics) も開発候補物質のスクリーニング(特に薬理安全性試験)で重要な役割を果たしている。(図2参照)


プロテオーム解析と創薬研究

ゲノム科学の流れは、 ゲノム→トランスクリプトーム→プロテオームを中核概念として、既に20年前からゲノム創薬の構想にあり、標的細胞内のタンパク質の構造や機能を解明するプロテオーム解析が疾患原因遺伝子の探索から創薬につなげるゲノム創薬戦略の主力と目されてきた。

プロテオームとは、 ゲノムによって制御されて細胞内に発現している全タンパク質のことである。 疾患原因遺伝子を含めてゲノム創薬研究の有力な標的と推定される遺伝子は、 少なくとも6千個から1万個と推定されている。遺伝子解析技術の進歩により、細胞内に存在する全遺伝子や全タンパク質を一挙にカタログ化し、 細胞内で起きた変化を同時にかつ経時的に検出し、同定することができる。

健康な人と病気の人双方の膨大なプロテオーム情報をコンピュータにより自動解析し、両者の発現している情報の質的差異を速やかに比較して、疾患原因遺伝子(タンパク質) や発症の鍵を握る遺伝子 (タンパク質)を発見し、創薬の標的となる受容体タンパク質や生理活性物質を探索することができる。


ゲノム創薬と核酸医薬

酵素や受容体などのタンパク質に加え、mRNAやDNAも医薬品の対象となるため、多くの種類の薬を作ることができるようになった。病気や患者の遺伝情報を利用して薬が作られるため、副作用が比較的少なくかつ高い薬効が期待できる薬を創薬できる時代が到来している。


ゲノム創薬を支えるキーテクノロジー

ゲノム創薬研究には、ヒトゲノム情報からヒト遺伝子の機能を効率よく解析するキーテクノロジーも重要である。DNAマイクロアレイ/DNAチップおよびFDD (fluorescence differential display)やSAGE(serial analysis of gene expression)などの方法によって遺伝子発現頻度解析が可能となる。 解析対象は、全長cDNAやトランスクリプトーム情報、各種疾患・病態変化、および薬剤投与などによって発現変動する遺伝子情報などである。

狙いを定め絞り込んだ候補遺伝子についてタンパク質を発現させて、 バイオインフォマティクスによってその機能を解析することができる。さらに、発現タンパク質の解析 (プロテオーム解析)などのほか、機能を知る上で重要な配列モチーフ解析やタンパク質の構造の推定から機能をコンピューターで予測することもできる。


ゲノム創薬とプレシジョンメディシン

プレシジョンメディシン(Precision medicine)とは、簡単に言えば、患者一人一人の遺伝子情報や体質などの違いを考慮して、最先端の技術を用い、細胞を遺伝子レベルで分析し、患者の個人レベルでの最適な治療方法や薬剤を選択し、 疾病予防や治療を行うことをいう。日本語訳は精密医療であるが、2015年1月20日のオバマ米国大統領の一般教書演説において “Precision Medicine Initiative”が発表されて以来、世界的に有名となり、現在では「プレシジョンメディシン (Precision medicine)」としてそのまま使用することが多い。類似語に個別化医療(Personalized Medicine)がある。

21世紀の医療は、プレシジョンメディシンを目指して進歩している。 プレシジョンメディシンを展開するためには、薬理ゲノミックスとゲノム創薬が中核となる。 患者個人別の遺伝子多型に基づくプロファイルから疾患に対する感受性や医薬の薬効や副作用の応答性を予測する薬理ゲノミックス(pharmacogenomics)は 、 適切な患者に最適な薬剤を投与することを可能にする。多因子疾患や単一遺伝子性疾患に対しても患者個人の遺伝的体質に合わせた処方や治療計画の選択を可能にする。

薬効や副作用のような薬物応答性や疾患感受性の個人差は、ヒト遺伝子変異の最も一 般的な型で、遺伝子多型 (polymorphism)と呼ばれている。多型では遺伝子の機能上の差異が明らかでない塩基配列の変化がみられ、集団全体の1%以上の頻度で存在するといわれる。

特定の薬がよく効く人 (レスポンダー)や効かない人 (ノンレスポンダー)、あるいは副作用を起こす人など個人差がある。そのためまず患者の遺伝子プロファイルに基づき、最適な薬を適切に患者に与えることが、薬理ゲノミックスの手法として重要である。 そして 最適な薬を創り出すためゲノム創薬の責務は大きく、プレシジョンメディシン の中核となる。


おわりに

ゲノム創薬は、ゲノム科学をベースに創薬科学構造生物学薬理ゲノミックスを加え、さらにバイオインフォマティクス(生物情報科学)を融合して生まれた新しい科学であり、新技術でもある。

従来型の創薬は、経験や偶然性による発明・発見であったが、ゲノム情報に基づくゲノム創薬は、論理的かつ合理的なアプローチである。ゲノム創薬は、その効率的な手法によって有効性と安全性の高い医薬品を創成できる創薬技術として確立され、創薬研究の主流となった。


【参考文献】

野口照久, 化学と生物, 38, 605-609 (2000)
高山喜好, 日薬理誌(Folia Pharmacol. Jpn.) 129,47-50(2007)