はじめに
ファージ療法は、特定の細菌だけに感染して破壊するバクテリオファージというウイルスを用いた治療法である。この治療法は、抗生物質が効かない多剤耐性菌に対する新たな対策として注目されている。
ファージ療法は、抗菌薬が効かない多剤耐性菌に対する新たな対策として注目されている。
ファージ療法とは
バクテリオファージ(通称、ファージ)は、細菌に寄生するウイルスのことである。ファージ療法とは、そのウイルスが細菌に感染して細菌を殺す性質(溶菌活性)を利用した細菌感染症への治療法のことである。
ファージは、カプシド(殻)に核酸(DNAまたはRNA)を封入しており、細菌に感染して、核酸を菌体内に注入する。
ファージ(phage)は、殺菌を主に行うvirulent phage(溶菌性ファージ)と、細菌のゲノムに入り込めるtemperate phage(溶原性ファージ)に分類される。
抗生物質(抗菌剤)がなかった20世紀の初め、人類にとって脅威だった腸チフスや赤痢、コレラなどの細菌感染症の治療にファージ療法は盛んに使われたという。しかし、1928年にペニシリンが発見され、1940年代に抗生物質が実用化されていくと次第にすたれていったという歴史がある。
しかしながら、旧ソ連や東欧諸国など共産圏の国々では、冷戦時代に西側諸国から強力な抗生物質の供給が制限されていたため、ファージ療法が残ったという。それらの地域では現在に至るまで使われ続けている。最近では米国や欧州、豪州などでも実験的臨床使用が行われているらしい。
ファージ療法の新たな歴史のはじまり
東西冷戦時代といわれる数十年の間、旧ソ連や東欧諸国など共産圏の国々では、西側世界で開発された極めて強力な抗生物質の一部を利用することができなかった。
その対策として旧ソ連は、感染症を治療するためのバクテリオファージ(細菌を殺すウイルス)の利用に多額の投資を行ったとされる。ファージ療法は、現在でもロシア、グルジア、ポーランドで広く利用されている理由はそのような経緯があるからだという。グルジア・トビリシにあるエリアバ研究所では、100年近くにわたってファージを研究し、患者の治療に利用しているらしい。一方で、上述の地域以外では全く普及していないのも事実である。
ところが最近になって事情が変わりつつあるようだ。現在では、迫り来る抗生物質耐性の恐怖に直面している西側の研究者と各国政府が、ファージを真剣に見つめるようになりつつあるという。
2014年3月、国立アレルギー・感染症研究所(米国メリーランド州ベセスダ)は、抗生物質耐性に対処する計画の7戦略の1つとして、ファージ療法を挙げたという。
2014年5月にボストンで開催された米国微生物学会(ASM)の大会では、ローザンヌ大学(スイス)のGrégory Resch博士が「Phagoburn計画」について発表した。これは、欧州委員会の予算で実施される、ヒト感染症のファージ療法に関する初の大規模な多施設臨床試験であるという。
フランス、ベルギー、オランダの研究者たちは、2014年9月以降、大腸菌や緑膿菌が患部に侵入した熱傷患者を220例集め、臨床試験を行ったらし。その患者には、フレシード・ファルマ社(Pherecydes Pharma;フランス・ロマンヴィル)のファージ製剤が投与されたという。
フレシード・ファルマ社は、下水や河川水などから1000種類を超えるウイルスを分離し、それらが持つ病原性細菌を死滅させる能力をスクリーニングしている。耐性が出現する確率を下げるため、患者には、細菌細胞に侵入する方法が異なるファージを10種類以上混合したものが投与された。そのファージ療法が失敗した場合には、標準的な抗生物質が投与されることになっていた。
Phagoburn(ファージ療法の大規模多施設臨床試験)は、2017年にフ ェーズ 2/3 が終わったところである。まだ最終報告は出ていないが、中間報告の段階で、副作用が観察されていない点に注目されている。すなわち、純粋なファージ粒子に対する副作用は無かったということである。
その後、他にも様々な臨床治験が立ち上がっており、2018年11月、フランスでGMPレベルでの治療用ファージをつくる生産拠点が構築されたという。これは注目すべきで点である。
ファージ療法が見直された理由
かつて西側諸国でファージ療法に目が向けられなかったのは、未知の感染症の治療に当たる医師がさまざまな細菌を殺す広域抗生物質を好んだためという(引用:テキサスA&M大学のウイルス学者Ryland Young)。
一方、抗生物質とは異なり、ファージが殺す細菌はわずか1種、あるいは1系統だけだという。かつてファージ療法の欠点であった特徴が今、薬剤耐性菌との「いたちごっこ」に終止符を打つための対策の切り札として見直されているのは「温故知新」ということで大変興味深い。
ここで抗菌剤の開発とその薬剤耐性菌との「いたちごっこ」についてみてみよう。
薬剤耐性菌とは、抗菌薬が効かない細菌の総称である。抗菌薬が発見されて以来、人類は抗菌薬を使い続けた結果、抗菌薬が効かない菌を生み出してしまった。現在は、臨床で使用されている全ての抗菌薬に対して耐性菌が確認されている。
プラスミドは、染色体DNAとは独立して複製を行う環状二本鎖DNAの総称である。染色体DNAは生体の生存に必須であるが、プラスミドDNAは一般的に必須でない。薬剤耐性遺伝子はプラスミドによって伝搬されることも多い。
カルバペネム耐性遺伝子は、βラクタム系抗菌薬であるカルバペネムに対する耐性を示す遺伝子のことであり、それを有する細菌をカルバペネム耐性菌という。カルバペネムは広域スペクトラムを持ち、他の抗菌薬が使用できない場合の最後の切り札として使用される場合も多い。そのカルバペネムに対しても耐性菌が出現した。カルバペネム耐性菌は他の多くの抗菌薬に対しても耐性である場合が多く、抗菌治療が困難になるケースが多い。
コリスチンは、細菌の外膜に結合することにより抗菌活性を発揮する、ポリペプチド系の抗菌薬である。腎障害や神経障害の副作用があるため、臨床ではあまり使用されないが、カルバペネムが効かなくなったグラム陰性菌に用いられる。しかし、 mcrと呼ばれるコリスチン耐性遺伝子群が蔓延しつつあることが報告されている。コリスチン耐性遺伝子は、コリスチンに対する耐性を示す遺伝子のことであり、それを有する細菌を コリスチン耐性菌という。 またしても耐性菌の出現である。
黄色ブドウ球菌は、医療施設で分離頻度が最も高い病原細菌である。その多剤耐性菌であるメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)は、市場抗菌薬の半数以上を占めるβ-ラクタム薬の全てに耐性を示す。MRSAが市中感染を引き起こようなことがあれば、甚大な被害を引き起こす可能性もある。
このように耐性菌に効力を発揮する抗菌剤を開発してもすぐにその抗菌剤の耐性菌が出現してしまう。まさに「いたちごっこ」である。 早くこのゲームから解放されたいものである。
病原性細菌を攻撃するためにはもっと高精度な方法が必要であることを研究者たちは認識している(引用:サウスカロライナ医科大学/米国チャールストンの微生物学者Michael Schmidt)。
切り札である抗生物質や抗菌剤に対する耐性を備えた系統が増えるに従い、抗生物質や抗菌剤が病原性細菌と同時に人体に有益な微生物をも駆逐してしまうことで、抗生物質耐性細菌や多剤耐性菌が増殖する「余地」が作られる、という考え方が支持されるようになってきたという。
標的の細菌に適したファージを見つけ出すのはそれほど難しくないという。自然界には無尽蔵と言ってよいほどの「ファージの蓄え」があり、全く同一のファージが見つかった例はないという。
細菌は、1種類のファージに対する耐性を獲得するのに、ファージが侵入するときに利用する細菌細胞表面の受容体を切り捨てる。つまり、耐性の効力はその種類のファージにしか及ばない。そこで、患者に投与するファージカクテルに対し、単純に別のファージを加えている(エリアバ研究所の研究チーム)。カクテルは8カ月ごとに作り替えられており、カクテルに含まれるファージの正確な構成は必ずしも分かっていないという。
その治療法が臨床試験の先まで進められるようにするためには、ファージ療法が、季節性インフルエンザワクチンなどと同じように取り扱われるような品質管理体制を構築する必要がある。欧州連合(EU)がPhagoburn研究に380万ユーロ(当時の日本円換算で約5億2000万円)を投じた事実から、EUがその方法に前向きであることが分かるという。
ファージ療法の研究目的
各国政府はファージ療法に目を向けるようになってきたが、製薬会社の多くはまだ乗り気ではないという。ファージ療法には100年近い歴史があるため、この治療法を知的財産として主張することは難しく、そのために折角投じた開発投資資金を回収することは容易でないと考えられるからだという。
また米国では、2013年に自然界の遺伝子に対する特許は認められないという最高裁判決が下されたため、自然界から分離されたファージにもそれが適用される可能性が高いらしい。それに対し、フレシード・ファルマ社のCEOであるJérôme Gabardは、特定の細菌を攻撃する天然ファージの的確な組み合わせの開発と確定に特許が認められるようになることを期待していると発言している。理論的には、組換えファージならば特許が認められる。
薬剤耐性細菌に感染した患者の中には、自分の手で何とかしようとする動きが出始めているという。EUではファージ療法を受ける目的のためにグルジアを訪れる患者が増えているという。
また、EUの一部の国の医師たちが患者の検体をエリアバ研究所に送ると、同研究所は感染原因の細菌に特異的なファージカクテルを送り返してくれるのだという。
多くの研究者たちは、このファージ療法の技術が臨床利用されるための土台が築かれることを期待しながら、Phagoburn研究を興味深く、かつ、注視しているようだ。この研究が成功すれば、ファージ療法が一気にスポットライトを浴びて、多くの研究者がファージ療法を研究するようになるかも知れない。研究の成果を期待して待ちたいと思う。
MIT(米国ケンブリッジ)の合成生物学者Timothy Luを中心とする研究チームが、CRISPRと呼ばれるDNA編集法を利用して薬剤耐性細菌だけを殺すように改変したファージに関する研究成果を発表した。ファージが細菌にDNAを注入すると、細菌はそれを基にしてRNAを作る。そのRNAの配列が細菌DNAに存在する抗生物質耐性遺伝子の一部と結合すると、そこに誘導されたCas9と呼ばれる酵素が細菌DNAを切断するため、細菌は死に至る。
最初の試験で、そのファージには、特定の抗生物質耐性遺伝子の配列を有する大腸菌細胞の99%以上を殺す能力があることが示された。一方で、抗生物質感受性の細菌細胞には影響を与えなかったという。耐性の大腸菌に感染したハチミツガの幼虫にそのファージを投与すると、幼虫の生存率は高くなった。研究チームは現在、マウスでその方法の試験を開始しようとしている(ヒトでの試験はまだ先のことである)。
このように、2010年代の後半に、米国でファージ治療により劇的な治療効果を示した事例が登場したことから、欧米で研究開発が活性化しつつある。現時点で臨床研究の数は限定的であるが、新世代の抗菌薬としてのポテンシャルは大きいといえよう。
ファージ療法が抗生物質や抗菌剤に取って代わることまでは期待する必要はない。しかし、多剤耐性菌に対する薬物治療がうまくいかなかった患者用としてのファージ療法に期待がかかるのは言うまでもないことだろう。
あとがき
多剤耐性菌とは、複数の抗菌薬に対して耐性を持つ細菌のことを指す。これらの細菌は、抗菌薬の効果を無効化する能力を持っていて感染症の治療を困難にしている。
抗菌薬が効かない薬剤耐性(AMR=Antimicrobial Resistance)を持つ細菌の増加は、世界中で問題となっている。特に、抗菌薬が効かないと、これまで感染症が軽症で回復できたものが、治療が難しくなり、重症化しやすくなり、さらには死亡に至る可能性が高まる。
薬剤耐性菌が出現しやすい条件には、主に3つのケースがあるとされる。
- 必要のない症例での抗菌薬の投与
- 必要以上の広域抗菌薬の投与
- 必要以上の抗菌薬の長期投与
上記のような条件下で抗菌薬を使用すると、抗菌薬に対する耐性を持つ細菌が増え、その結果、抗菌薬が効かなくなる可能性がある。
薬剤耐性菌の拡大を防ぐためには、感染症にかかり抗菌薬を必要とする機会を少なくすることや感染症を周りに拡げないようにすることが重要である。また、医療の現場で、ウイルスによる感染症をはじめとして、必要のない抗菌薬を処方しないという取り組みが重要である。
上記のような取り組みと並行して、ファージ療法は抗菌薬が効かない多剤耐性菌に対する新たな対策として注目されている。