はじめに
腸溶性製剤の開発には主として次のような3つの目的がある。
- 有効成分の胃に対する刺激作用を低減させて胃を保護する
- 低pHで不安定な有効成分が胃内で分解するのを防ぐ(バイオアベイラビリティの改善)
- 血中濃度の持続化
腸溶性製剤は、低いpHでは溶解せず弱酸性から中性領域のpHで溶解する高分子(酸不溶性の腸溶性基剤)を被覆した錠剤または顆粒剤、さらにはこれらを充填したカプセルの形で製剤化される。
腸溶性製剤からの有効成分は、胃内で放出せずに主として小腸内で放出される。
アスピリン腸溶錠の開発目的
バイアスピリン錠(Bayaspirin)というバイエル(Bayer)社が製剤開発したアスピリン(Aspirin)の腸溶錠が市販されている。
この腸溶錠は、低用量(100 mg)のアスピリン製剤であり、抗血小板剤として動脈硬化性疾患における血栓塞栓形成抑制の目的で広く臨床使用されている。日本では川崎病にも使用されている。
一般薬(OTC薬)として市販されている高用量(500 mg)のアスピリン錠(製品名:バイエルアスピリン)が素錠であるにもかかわらず、この低用量のアスピリン錠に腸溶性フィルムコーティングを施している理由は、アスピリン特有の有害事象(胃十二指腸障害、胃出血等)を軽減させるためである。
この低用量アスピリン錠は、頓服使用の解熱鎮痛剤とは異なり、毎日1回1錠を継続して服用しなければならない医薬品であるため、安全性の観点からも最大限の製剤学的工夫が必要である。
アスピリン腸溶錠の製剤化における技術的課題
医薬品インタビューフォーム(IF)によると、バイアスピリン錠の核錠に使用されている添加剤は、粉末セルロースとトウモロコシデンプンのみである。結晶セルロース(賦形剤)やステアリン酸マグネシウム(滑沢剤)は使用しない。
アスピリン(別名アセチルサリチル酸)が加水分解してサリチル酸と酢酸になりやすいためである。アスピリンには吸湿すると加水分解しやすいという性質があるので、アスピリン錠は直打法で製造される。
余談であるが、アスピリンの誕生以前には、サリチル酸が鎮痛剤として使用されていた。しかしながら、サリチル酸は胃穿孔を起こしやすい薬剤であったので、強い胃痛という副作用があった。19世紀(1897年)にドイツ・バイエル社のDr. Felix Hoffmannがサリチル酸をアセチル化することに成功し、副作用の少ないアセチルサリチル酸(アスピリン)が合成された。したがって、アスピリンは加水分解してサリチル酸と酢酸になりやすい。
腸溶性コーティング(水系コーティング技術)
さて、バイアスピリン錠の腸溶性フィルムコーティングには添加剤として、メタクリル酸コポリマーLD(腸溶性コーティング剤)、ラウリル硫酸ナトリウム(界面活性剤)、ポリソルベート80(界面活性剤)、タルク(付着防止剤)、およびクエン酸トリエチル(可塑剤)が使用されている(バイエル薬品が提供するIFを参照)。
私がバイアスピリン錠(腸溶錠)を製剤技術的に注目した点は、水系コーティングで製造されているところである。
上述したように、アスピリン原薬自体は水分に弱く高湿度下では加水分解しやすい。それにもかかわらず、メタクリル酸コポリマーLDをアスピリン錠(核錠)に噴霧して水系コーティングで成功している点である。
尚、メタクリル酸コポリマーLDは、メタクリル酸とアクリル酸エチルの共重合体ポリマーがポリソルベート 80及びラウリル硫酸ナトリウムの水溶液に分散され、乳濁液として提供されている腸溶性コーティング剤である。
最適なコーティング条件を見い出すことは容易ではなかったはずである。おそらくコーティング初期の操作条件設定(噴霧液速度、噴霧液滴、給気・排気温度、品温など)がポイントになっていると推察する。
コーティング液の噴霧中に水分が核錠に移行するのを防ぐために乾燥気味に操作しているはずである。また、コーティングパンの回転速度も可能な限り速くして、錠剤床の混合性にも注意を払っているはずである。
アスピリン錠(核錠)の処方に粉末セルロースを加えている理由は、コーティングに耐えられるよう核錠の強度を高めるためであろう。これらの製剤学的工夫の他にも技術を結集して、常識的には敬遠するようなアスピリン錠の水系(腸溶性)コーティングにチャレンジし、成功に導いた製剤技術研究者に敬意を払いたい。
あとがき
アスピリン腸溶錠(バイアスピリン錠)は、アスピリン自体が持つ胃粘膜への刺激性や、胃内の酸性環境下での分解を防ぐために開発された代表的な腸溶性製剤である。
通常のアスピリン錠は胃内で容易に溶出してしまい、胃粘膜に直接接触することで潰瘍や炎症などの副作用リスクが高まると言われている。その理由は、胃内でアスピリンが加水分解してサリチル酸になるためであるとされる。アスピリンが胃内で分解されずに腸まで無事に運ばれ、腸内で正確なタイミングで薬剤が放出されれば、胃粘膜への負担が軽減され、長期投与時の副作用リスクが低下するメリットがあるというわけである。
そこで、錠剤の表面に特殊な腸溶性ポリマー(バイアスピリン錠の場合は、pH依存性に溶解するEudragit® L30D-55を使用)をコーティングすることで、低いpH(胃内の酸性環境)ではほとんど溶解せず、pHが5.5以上に上昇する十二指腸や小腸に到達した際に、適切に溶解して薬剤が放出されるよう設計されている。
この腸溶性コーティング技術を実現するためには、均一な膜厚のフィルム形成および腸内環境での溶解速度の最適化が極めて重要である。
バイアスピリン錠の場合、製剤開発の初期段階から、胃酸下での安定性と腸内における放出特性を評価するためのin vitro 溶出試験が実施され、最適なコーティング条件(腸溶性フィルム組成を含む)が確立されてきた。
製造工程、特にコーティング工程では、腸溶性コーティング用のポリマー溶液を錠剤(核錠)の表面に均一に噴霧塗布し、その後適切な乾燥(固化)処理を行ってフィルム膜を形成させる。ここで、技術的課題となるのが、核錠に如何にして水分を移動させずに水系コーティングを行うかである。核錠のアスピリン錠は水分が存在すると加水分解してサリチル酸になりやすいからである。
私なら多段階コーティングを採用することだろう。つまり、コーティング工程の初段階では極力噴霧量を押さえてフィルムコーティングを実施し、乾燥工程も途中で加えて、一旦最小限の薄いフィルム膜を形成されて、ある種の防水膜を先に形成される手段である。この方法は水系コーティング、特に高い品温でコーティングをするとタッキングしやすいEudragit®系ポリマーを使用する際に有用なノウハウである。バイアスピリン錠の場合は、どのようなコーティング条件を採用しているのかは私は知らない。しかし、何らかの工夫をしない限り、アスピリン錠の腸溶性コーティングは技術的に容易には達成できない。
いずれにせよ、何らかの取り組みにより、アスピリン錠の腸溶性コーティングは達成されている。そして、バイアスピリン錠は低用量(含量100 mg)の製品として市販され、効果的な抗血小板作用を発揮できる製剤となっている。このように、腸溶性コーティング技術は、患者の安全性向上や服用の快適性に大きく寄与しており、バイアスピリン錠はその成功事例の一つとされている。
胃酸に不安定な有効成分や局所的な副作用のリスクがある医薬品に対しては、腸溶性コーティングを活用することで、治療効果の最大化と副作用の最小化を図ることができる。現代の製剤技術では、使用できるポリマーの種類やコーティング工程の精度がますます重要視されており、同様のコーティング技術が他の薬剤にも応用されていることだろう。
【閑話】私がバイエル薬品(株)に入社したての頃、当時の直属上司(上原岑彦さん)からアスピリン錠のウィスカー防止策を製剤技術習得の研究テーマとして与えてもらったことがあった。
私が大学で湯浅宏先生(当時は東京薬科大学の大学院生)からエテンザアミドや無水カフェインのウィスカー(長いひげ結晶)の発生機構やその防止策について学んでいたことを知っていたからである。
当時のバイエルアスピリン錠(含量500 mg)には崩壊剤としてコーンスターチが使用されていた。勿論、水分含量の少ない乾燥コーンスターチが使用されていたが、コーンスターチの平衡水分量は13~14%と高いから吸湿しやすい。一次包装のブリスターパッケージで防湿していても保存期間が長くなると錠剤内の水分量が増え、加水分解され、その結果としてサリチル酸のウィスカーが発生してくる。
試行錯誤の結果、崩壊剤として「粉末セルロース」を使用することがウィスカーの発生防止を抑制できることが分かり、そのことを研究レポートにまとめたことがある。粉末セルロースは、コーンスターチに比べて、平衡水分が低く、崩壊性や圧縮成形性も満足できるものであった。残念ながら、当時はまだ「粉末セルロース」には医薬品添加物としての使用前例がなく、使用するなら新規添加物として申請する必要があったので、すぐには処方変更には至らなかった。尚、使用前例のある「結晶セルロース」は、不思議なことに逆にウィスカーの発生を促進することも分かった。
もし、私の研究報告書が後日、バイエルアスピリン錠の処方変更の際や、バイエルアスピリン錠の製剤開発の際に、添加物として「粉末セルロース」を使用することに繋がったのであれば、上司の上原さんと湯浅先生に感謝しなければならない。人との縁とは、実に不思議な巡りあわせがあるものであると思う。
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